2013年09月18日

「舞姫」モデルのその後

六草いちか氏が「舞姫」エリスのモデルを発見し、さらに存命の親族を探し出して取材し、写真
と遺品、手紙まで見つけ出しました。
その過程が「それからのエリス いま明らかになる鴎外『舞姫』の面影」にまとめられています。
それまでのモデル詮議が全て確かな資料の前に吹き飛んでしまいました。
ネット上に書き散らされているデマも否定されました。
地道な取材の積み重ねから成る労作を読了し、深い感慨に浸りました。

モデルの名はエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト、鴎外と会った頃には母親は再婚して
きょうだいもおり、「舞姫」の母子家庭とは家族構成が違っています。
彼女は20歳、妹のアンナ(通称はクララ)が先に結婚していました。その子供は早世しており、
その名がエルンストです。「舞姫」のエリスの父親「エルンスト」と同名で、ここから名が
取られたのではないか、と推測されています。
エリーゼが鴎外を追って来日したのは事実ですが会わずに追い返したというのは間違いです。
2人で何度も会っており、円満に帰国させています。
その後エリーゼに関するはっきりした記録はないのですが、鴎外は周囲に迫られる形で結婚
しています。しかし入籍していなかったことがまた憶測を呼びます。
つまりまだエリーゼとの結婚にかすかな望みをつないでいたのではないか、ということです。
しかし、鴎外の親友であった賀古鶴所がベルリンへ行き、エリーゼに鴎外の結婚を伝えて、
決定的な破局をもたらしたのではないか、と推測されています(事実は不明)。
その後「舞姫」が書かれており、二人の関係を断ち切った「相沢謙吉」は、賀古がモデルと
考えると、なるほど辻褄が合います。
長男の出生から計算すると「舞姫」執筆時に妻が懐胎したことになり、それはエリーゼとの
結婚を断念した後、ということにもなります。しかし妻とは結局未入籍で別れています。
その後は鴎外もエリーゼも結婚せず、独身のままで長年文通を続けています。やはり望みを
繋いでいたように見えなくもありません。
そして日露戦争の前に鴎外は正式に再婚しています。エリーゼの結婚はその3年後です。
この頃には、互いに踏ん切りがついて文通もやめ、結婚に踏み切ったのではないか、と思い
ます。当時戦地に森家から「横文字」の手紙を転送した記録があり、それがエリーゼからの
結婚を報告する手紙だったのではないか、と考えられます。
六草氏の組み立てた推理は「恐らく日露戦争の時には切れていた」という私の想像と重なり
ました。「うた日記」の『扣鈕』は、交際が続いていたら書けない詩だと思ったからです。
http://www.geocities.jp/sybrma/346ougai.shi.botan.html
エリーゼの結婚報告を知って書いたと考えると納得がいきます。

妻に対する配慮が作品に影響しているという氏の指摘には、あらためて考えさせられました。
妻は「舞姫」の読者で鴎外萌え(今の表現では)で結婚しました。エリーゼ来日も知っています。
結婚後の作品は妻を気遣い、ドイツ時代は過去だと強調していると考えると、理解が深まります。
その妻の生んだ鴎外の娘の名前は茉莉と杏奴、マリーとアンヌです。
エリーゼではありませんが、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトを思わせます。
妻はそこまで知らなかったのでしょうか?
杏奴の生まれた翌年発表された「普請中」に、過去つきあったドイツ人女性との再会が書か
れていますが、その描写は幻滅を誘い、あたかも妻に「こんなものだ」と言っているように
見えます。
その女性がかぶっている「アンヌマリイ帽」は、アンヌもマリーもありふれた名前で詮索には及ばない、と弁明しているように見えなくもありません。
六草氏の調査ではアンヌマリー帽は存在しないようです。
ひょっとしたら妻のためのフィクションかもしれません。

しかし「マリアンヌ」はあります。
前回書いた「フリジア帽」をかぶった「マリアンヌ」です。
「フリジア帽」の由来は解放された奴隷のかぶった帽子、フランス革命の精神、フランスの
共和制を象徴する女性像です。フリジア帽はフリーメーソンの象徴、西周がフリーメーソン
なので、鴎外フリーメーソン説がささやかれます。しかし証拠となる資料はありません。
また、西周は鴎外とエリーゼの交際を認めず縁談を進めた人です。エリーゼを思わせる名前
を娘につけた理由は、直接西周とは結びきません。
エリーゼが帰国後に帽子のデザイナーになったことから、フリジア帽をかぶったマリアンヌ
を彼女は知っていたはずで、鴎外とその話をした、或いは手紙に書いたことがあり、それで
娘が「マリアンヌ」になったのではないか、と私は想像しています。
「舞姫」の後に書かれた「うたかたの記」のヒロインの名前もマリーで、エリーゼへの執着
が窺えます。

前回は書きませんでしたが、フリジア帽をかぶった名画として必ず上げられるドラクロワの
「民衆を導く自由の女神」の他に、ジャック=ルイ・ダヴィッドの「パリスとヘレン」が
あります。トロイ王子パリスとスパルタ王妃ヘレンの禁断の恋を描き、パリスにフリジア帽
をかぶせています。フリジア帽は、理性の象徴ではないのです。
こちらで画像と解説をご覧下さい。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/08/post-fb91.html
禁じられた恋を象徴するフリジア帽をかぶった「マリアンヌ」は、深い感情の解放を表して
いる、と思います。

今日なり。今日なり。きのうありて何かせん。 
あすも、あさても、空しき名のみ、あだなる声のみ。
「うたかたの記」のヒロイン、マリーの叫び)

フランスは婚外子の多い国で、それが少子化に歯止めをかけています、と言うと余計かも
しれませんが・・・。

さらに、エリーゼは鴎外の子供を生んでおり森家が経済的支援をしていたと推測できる資料
もありますが、それについては六草氏の調査でもエリーゼには子供はいなかったという親族
の話で終っており、それ以上のことはわかりません。
エリーゼが名のっていたルーツィという名の由来もわかりません。

しかし、デマは覆されました
ネットで10代の娘を孕ませて捨てた、来日したのに会わずに追い返した、子供にキラキラ
ネームをつけた、という書き込みが拡散されていますが、間違っています。
まずエリーゼは20歳で、妹が先に結婚し出産していた、つまり適齢期だった、が事実です。
来日した時は鴎外と何度も会っています。そしてその後は明確な資料は見つかりませんが、
まだ互いに諦めきれず、縁談を進められても入籍せず、友人が渡独してエリーゼに最後通牒
をつきつけ、破局してから、妻との間に長男を儲けたが、入籍せず離婚した、と、憶測です
が考えられます。
2人の間に子供がいたかどうかは、親族の話では否定的ですが、不明です。
そして別離後、互いに独身で文通を続けていたが、共に結婚する頃は振り切れていた、と、
またもや憶測ですが、考えられます。
エリーゼはある程度経済力のあるユダヤ人男性と結婚し、ヒトラーの台頭前に死別しました。
戦争中は疎開し、戦後一時妹夫婦と同居し、その後は恐らく自ら望んで老人ホームに入り、
そこで86年の生涯を終えました。鴎外よりはるかに長く生きていました。


鴎外の子供たちがDQNネーム(キラキラネーム)だというのは、追究不足です。
鴎外の長男の於虎(オットー)は、中国では虎(或いは猫)を示す古い言葉でもあります。
「春秋左氏傳」に出てきます。茉莉(マリー)も同様、ジャスミンのことです。杏奴(アンヌ)
も「紅楼夢」などに出てくる女性の名前です。亡くなった不律は筆の意味だと「爾雅」に書か
れています。類はこれと言った出典が見つかりませんが、普通に漢文で使われます。
子供たちの命名は漢文の素養が下敷きになっていて、ただの西洋かぶれとは違います。



posted by 183 at 15:34| 読書・映画・写真・占い・音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする